JBL創業者
1902年1月14日、イリノイ州生まれ。1925年知人を通して宝石商のケネス・デッカーと出会い、ラジオ・セット用スピーカーを製造する共同事業を始める。1927年頃にビジネスの拠点をロサンゼルスに移し、名前をジェームズ(ジム)・バロー・ランシングへと法的に改名した。そして1927年3月9日に、ランシング・マニュファクチャリング・カンパニー(Lansing Manufactturing Company)をカリフォルニア州法人として登録する。
1930年代前半、無声映画の時代が終わり全てのシアターがサウンド(トーキ)映画を上映していた。ジム・ランシングは1933年初頭にベル研究所のエンジニアたちが開発した「フレッチャー・ホーン・システム」をベースに改良を加えた「シャーラー・ホーン・システム」用のスピーカーユニットの制作を担当した。MGMはロウズ・シアターの系列館にこの新型「シャーラー・ホーン」を納入することを決めRCAとERPIの両社が供給し、RCAが供給するシステムにランシング・マニュファクチャリング社が製造したコンプレッションドライヴァー「284」が使われた。MGMは、この「シャラー・ホーン・システム」の卓越した音響技術に対して、1936年のアカデミー科学技術賞を贈られる。
1936年、「シャーラー・ホーン・システム」の品質をそのまま継承した小型システムの開発を望む声に応え、「ランシング・モニターシステム」を新に発表する。1937年には2ウェイ・モニタースピーカー「ランシング・アイコニック」を発表した。
1937年、ウェスタン・エレクトリックが合衆国政府との同意判決に署名し映画館の音響機器の供給を辞めており、ERPIは音響機器の製造・供給を続けていたが、シアター部門に関してはそれまでの責任者たちに買収され、「アルテック・サーヴィス・コーポレーション」に生まれ変わった。
1941年ランシング・マニュファクチャリング社は経営危機に陥り、問題解決の為にアルテック・サーヴィス社がランシング・マニュファクチャリング社を5万ドルのキャッシュで買収する。ランシング社のすぐれた一連の音響機器を製造する権利も含まれていた。そして「アルテック・ランシング・コーポレイション」が誕生する。
ジム・ランシングはアルテック・ランシング社に留まり、製造副社長という役職を与えられたが1946年にアルテック・ランシング社を退社する。
同年10月1日「ランシング・サウンド・インコーポレイテッド」を法人登録したが、アルテック・ランシング社からのクレームを受け「ジェイムズ・B.ランシング・サウンド・インク(James B. Lansing Sound Inc.)」へと変更、JBL社の誕生である。
1949年JBL社の経営状態の問題を苦にしていたためだと思われるが自ら命を絶つ。享年47歳であった。